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06
2007.02
『素晴らしい事が終わるとき―歴史とわたしとバービー人形―』劇評
「招かれたテキスト」


 アメリカでは、作家自身の一人語りによって上演されたという。個人史的なエピソードとない合わせられながらも、せりふにはある部分で作家の主張が率直な形で表れている。

 今回の上演は、それにただ同化して代弁しようとするのではなく、他者からのメッセージとして受け止めることから始められているように感じた。

 場面が切り替わるごとに、英語によるアナウンスが流れる。テレビのクイズ番組で模範解答が発表されるときのような、コミカルで機械的な調子で物事が語られるシーンがあったりする。これらの演出は私にとって、英会話などの教育番組を想起させるものだった。すなわち、そこで語られる内容は、目の前の人物個人から生まれたものではなく、彼らによって媒介される客体なのである。その印象は、リーディングとして台本を手に持ちながら語る姿によって、いっそう強められる。

 では、客体として顕現されたテキストは、どのように観客に媒介されたのだろうか。三人の女優を登場させるという今回の演出によって、テキストは主張されるというよりは、大部分において彼女らの輪の中で「共有」された。受け取ったメッセージを「語り合う」構図である。舞台を見つめる観客は、言説を浴びせられるのではなく、その「共有」の輪に参加させられたと言っていい。

 私は、床に散りばめられた沢山のハイヒールに、街を行き交う不特定多数の女性を思い浮かべずにはいられない。三人の女優は、同時代を生きる一人のアメリカ人女性が発するメッセージを、日本の女性全体を代表して受け取り、語り合っている。そうすることにより、この作品で扱われている問題に対して、皆が語り合うべきなのだと主張しているように感じる。今回のリーディングはそういった点において、非常に意義深いのではないだろうか。
演劇 | CM(0) | TB(0) | PAGETOP
06
2005.09
コンプレックス
若ければ情熱があるのではなく、情熱のある世代が若い時代があった

今だけを見れば、たしかに今の若者には情熱がない
演劇 | CM(0) | TB(0) | PAGETOP
24
2005.07
混雑した電車での、くしゃみについて
くしゃみには技術がある。少し工夫すれば有声化せずにできる。大声でくしゃみをするのは、自分が満足感を得るためにすぎない。周囲に害悪を与えずに無声のくしゃみをしても、生理的な欲求は解消できる。あのやかましい声はもっぱら感情的充足感を得るためのものなのだ。パブリックな場でまでそれをする必要に果たして迫られてのことなのか。
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07
2005.07
演技実習? プレゼン内容記録
『人形の家』戯曲分析

[女・ノーラ考]

1 「嘘」への着目

 ノーラは劇中、おびただしい数の嘘をついている。自分の解釈では実に27箇所にのぼる場面において認められる。台詞によって相手に嘘をつく、隠し事をする、ごまかすという行為の対象はツリーの配達人を除くすべての登場人物(子供でさえも)にわたる。
 その嘘の列挙の3分の2弱を占めるのは、夫に隠れてした借金を、周囲の者たちに隠さんがためのものであった。ここに分類される虚言に関しては、彼女のありかたというよりも、この状況による要請に負う部分が大きいと思われる。そのために、その種の箇所を除いた、残りの箇所からノーラの人物像を考えるヒントを挙げてみることにする。

〈対ヘルメル〉
・一幕:マカロンを食べていないと言い張るくだり
・一幕:リンデ夫人に働き口を工面するようねだるくだりでの事    実の脚色
・一幕:仮装舞踏会のための衣装を決めてくれるようねだるくだ
    りの中の、「あなたの助けなしじゃ、何にもできない」
    という発言
●夫に甘えて二人の関係を楽しんでいる

〈対リンデ夫人〉
・一幕:本当は手紙を出そうと思っていたと発言するくだり
●他人は他人であって、ほんとうに親身ではない

〈対クログスタ〉
・一幕:夫に対して影響力など持っていませんと前言をひるがえ    すくだり
・一幕:借用証書に父が署名したという発言
・二幕:裁判沙汰にするつもりはありませんと言われて、「わか    っていました」と言うくだり
●これまでに他人と、かけひきをしたことがない(世間知らず) ために、これまで父親や夫にしてきたように、都合の悪いこと は、でまかせ言ってごまかして切り抜けようとする。

〈対ランク〉
・一幕:マカロンはリンデ夫人にもらったものだと言う
・二幕:二人っきりで話しているとき、助けを求めるがためらっ    ているようなふりをするくだり
●父親や夫に対するときと同じ、媚びる技術を駆使しているが、 ここでは関係を楽しむことが一番の目的ではなく、あくまで
 危機を脱する手段として利用しようとしている。

上記の項目をまとめると、
・大切なのは夫
・他人は、つまるところ利用する対象
・借金を機に、はじめて社会と自ら接した

他人を利用するのは、夫との生活を守るためであった。さらに言えば、彼女の行為のすべては「夫のためになる」ことに奉仕している。


2 ノーラの倫理観

 上に書いてきたように、ノーラは夫のためになることであれば、他人を利用することもいとわない。借用証書を偽造することで法に触れもした。しかし、それによって彼女に倫理観がないということにはならない。
 彼女のなかには、[夫のためになる]ことが唯一の道徳規範として存在している。それはその他すべてのものごとに優先することがらであって、そこを守っていることこそ彼女の誇りである。
 そう考えると、この戯曲が、ノーラの自我の目覚めを描いたものではないという判断に至る。夫のために生きているということは既に彼女のアイデンティティーとして成立しているからである。
 彼女はまた、夫と戯れることにいわば溺れて真に生きることをしていなかったという、この認識も誤りであると思われる。彼女は無知なヒバリを演じていた。それは夫とのコミュニケーションの手段であり、父親のもとにいるときから獲得していた一種の技術である。彼女は勿論それを楽しみながら行っていた。
 彼女は、けして感情的で理性を欠いた人間であると言えない。法律やモラルに反した行為そのものを表面的に扱うと、いかにも理性的な判断を欠いた感情の暴走の結果であると評されるものであろう。しかし、それらの行為をいま一度、彼女の倫理観・道徳基準に照らし合わせてみると、これは理にかなった、彼女によるきわめて冷静適切な判断であったといえる。社会の常識への知識の欠如という点であるが、彼女がそれを十分に獲得していたとして、果たして彼女の行動は違っていたのかというと、それは甚だ疑問である。そういう知識があったにせよ、そんなことはどのみち彼女の最大の優先事項よりも下位にあるにはちがいない。結果は大きく違わなかったとしか思えない。


3 生きがいの喪失

 そんな彼女の倫理観は、借用証書偽造の夫への露見と同時に、打ち砕かれることになる。彼女は夫も自分と同じ価値観でもって生きているとかたく信じていた。しかし実際には、彼は妻の身を案じるよりも、自分の名誉が傷つくことから逃れようとする男であった。ノーラはそこで、生きがいをなくす。
 生きがいの喪失というと、リンデ夫人の姿を思い出す。そして生きがいをなくしたノーラの将来はリンデ夫人によって暗示されていると論じられもしている。しかし、二人の状況は一見似ているようでその性質を大きく異にする。
 リンデ夫人は、母との死別と弟の自立によって生きがいをなくしたが、クログスタとよりを戻すことによって再び生きがいを手に入れた。これは実は、彼女の生き方に変化があったゆえの展開であるとみるべきではない。
 彼女ははじめ、病気の母と弟たちのために、クログスタを捨てて経済力のある男と結婚した。このときの彼女にとって、何にも勝る人生の目的とは「母と弟たちのために」ということであった。これをノーラの「夫のために」という姿勢と同じ種類のものととっていい。そのときの判断基準に従えば、クログスタと別れることも納得のいく判断である。時を経て、そのかつての生きる目的を失ったリンデ夫人は、路頭に迷うことになる。そこでかつての恋人と再会し、今度は彼を「生きがい」としてやっていこうと考えた。最初の判断を、いかにも世間でいうところの「合理的判断」に当てはまるという理由でそういうものだと決め付けると、リンデ夫人はノーラと違って理性的な判断をする女性なのだと判断することになってしまう。しかし彼女もノーラと同じく、唯一の生きがいのためにはすべてを投げ打つこともいとわないという、その価値観に終始貫かれている。
 一方ノーラは、劇の最後に夫の正体を知り、その元を去った。ノーラは、「愛する者のために生きる」というその価値観自体に疑問を抱いたために家を出る。
 つまり、両者における「生きがいの喪失」とは、かたやその対象を失ったことと、かたやその方法論が崩壊したことという、まったく異なる出来事であるということになる。


4 まとめ

 これまでの話をまとめてみる。
 ノーラはよく女性が評されるように、感情にまかせて、理性を働かせずに行動する人物であったわけではない。自分の主義にかなうように行動したにすぎない。
 その主義とは、自分の愛する者のためになることを、自分の命をも含めた何ものよりも優先させることであった。それ以外の事柄は、それが満たされた上ではじめて判断の対象となった。(リンデ夫人にも共通する点)
 借用証書の偽造が発覚した以降のくだりで、へルメルはノーラよりも名誉を優先させることが明らかになった。ノーラにとって愛とは全てに優越するものであった。つまり、ノーラの考えるところの「愛」を彼は持っていなかった。
 そこで彼女は、これまで自分が従ってきた唯一の価値基準を疑うにいたる。今まで、誰かのために生きなかったことはなかった。(父親や夫のために生きることがアイデンティティーだった。)その生き方そのものを疑ったいま、それを解決するには一人になるしかない。子供を連れて行けば当然、次なる生きる目的
となってしまう。
 しかし、彼女はさらに深い根底では変化していないということにも気付く。それは、何かひとつ最も大切なものごとを抱いて、そのために行動するという点においてである。今まではその対象が、人間であった。今度は、今まで持ち得なかった価値基準を獲得することそのものが、生きがいとなっている。その目的にむかって全力を注ぎ込むことに彼女は何のためらいもない。
 全てを失ったように見える彼女だが、実はその部分だけは確かに持ち続けている。それこそが、イプセンが描いた女性像の核であると思えてならない。


 
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30
2005.05
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はやく家でネットできるようになりたいです。。実習あるわ学食混んでるわでコンピュータの部屋が開いてる時間に来られません…
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